尻鼓

広間に響く朗々とした歌声と物悲しげな笛の音。柳扇は、その響きを聞きながら静かに手を握り締めた。歌声は、彼女の師である桐香の、笛は彼女の同僚とも言うべき櫻燐のもの。この紅慈の地で一番と言われる桐香の歌声に最近急速に上達しつつある櫻燐の笛が和して、広間を静かな音の場で包み込む。しかし、柳扇は桐香の膝の上にあってその美しさを楽しむ余裕もなく極度の緊張状態にあった。

・・もうすぐ....

柳扇の剥き出しのお尻から、桐香の手が離れる。その手は、一瞬の間の後軽く振り下ろされ再び柳扇のお尻に戻ってきた。柳扇のお尻が奏でるハッとするような打撃音。続いてもう一打。今度はやや強く。やがて、柳扇のお尻は、広場を満たす響きに加わる楽器となった。

「良いものですな」

阿稀は、隣の叡陽に声をかける。阿稀は、この街の商人。紅慈の書記・叡陽の館の宴に招待された客の一人である。

「まことに」

向かいに座る易学者の極清も、感心しながらつぶやいた。

「私も、これほどとは思わなかった。噂以上だな」

叡陽は、手にした杯をそっとおきながら答える。円卓の上には、鴨の蒸し焼きや各種の羹、麺類が所狭しと並べられ、川魚や貝類の醤に干果や酪といった珍味、それからもちろん酒もたっぷりと用意されていた。しかし宴の主役は明らかにそれらの料理ではなく、広間を満たす「響き」だった。

「あの尻鼓の娘、柳扇といってな。昨年桐香の所に来て、今日が始めての舞台だそうだ。だが、桐香によるとあの尻はまさに鼓になるための尻だとか」

叡陽はたたかれて紅く染まっていく柳扇のお尻を眺めながら、言った。柳扇はいすに腰掛けた桐香の膝に乗せられ、豊かなお尻を晒している。かなり強くたたかれているにもかかわらず、柳扇はほとんど動かずじっと耐えていた。規則正しく、それでいて強弱のあるお尻たたき。そのお尻の奏でる音は、広場全体をみずみずしい躍動感で包み込む。

「確かに見事な尻ですな」

阿稀も紅桃酒の杯を空けながら、感想を述べる。

「天が与えた尻だけでなく、稽古にも良く耐えて、すぐに最高級の尻鼓になるだろうと言っていたな」
「稽古とは、何をするのです?」
「お、璃媛。そなたも興味があるのか?」

突然発せられた姪の璃媛の問いに、叡陽はからかい口調で応じる。

「そ、そんな...。ただ....聞いてみただけ...」

一瞬、どきりとした表情を見せた璃媛は頬を染め、消え入りそうな声でつぶやく。

「そうか。そなたも、なかなか良い尻を....。いや、その、冗談だ、そう怒るな」

さらに追い討ちをかけようとした叡陽であったが、璃媛の燃えるような視線に撤退を余儀なくされる。

「で、稽古だがな。毎日手や撥で尻をたたかれるとか。満月と新月の夜には、鞭なども加わってひたすらたたかれ続けるそうだ」
「毎日、ですか。辛かろうの」

幼少の頃から女将に手や竹笞でお尻をたたかれて育った阿稀は、その痛みを思い出し、目の前でさらに紅く染まっていく柳扇のお尻を見て顔をしかめた。

「いやいや、それがそうでもないようだ」
「ほう?」
「柳扇は、尻をたたかれたいがため遥か千里の道を一人旅してきたとか」
「なんと。尻をたたかれたい、と?」

叡陽の意外な言葉に、阿稀は思わず聞き返した。それに、極清が静かに応える。

「そう言えば、たまにそのような人がいるようですな」
「そんな.....。私などは、嫌で仕方なかったが」

極清の言葉に思わずつぶやく阿稀。極清は、それに微笑みながら応える。

「ほう、阿稀殿もたたかれていたのですか」
「うっ、それは」

阿稀は、自らの失言に気づき絶句した。

「はは、それほど恥じる事でもありますまい。そういえば、亥前の都では尻打ちの本や図会が密かな人気となり、尻打ちに興じる輩のための館もありますな。その館には、尻をたたかれたい、あるいはたたきたいと思う者が各地から集っていました。さらに、聞くところによると尻打ちで病を治す尻打功なるものまであるそうで」
「そこまでとは...」

その後、男たちは尻打ちの話に興じ始め、璃媛は横でその話に興味深そうに聞き入る。いささか誇張されつつ語られる各地の尻打ちの様子、そして辺りに響く尻鼓。始めは世間話程度であった尻打ちの話は次第に盛り上がり、やがて宴席の者は皆自らが言いようのない興奮に包まれていくのを感じていた。

「そういえば、昨年訪れた楼饅の国もすごかったですぞ。日夜劇場で尻打ちの舞台が演じられ、尻を打ちあう祭りまであるとか。尻打ちを生業とせんとする者のための養成所までありましたな」

「ほお、楼饅ではそれほど尻打ちが盛んなのか。どうだ、璃媛、そなたも楼饅に行きたくなったか?」

叡陽の隣で柳扇のお尻に見入りながら興味深げに話を聞いていた璃媛は、突然話を振られ聞き返す。

「え、何と言われたのです?」
「いや、そなたも楼饅に行きたくなったかと思ってな」
「そんな....知りません!」

真赤になって俯く璃媛。その思わぬ反応に一同の視線が降り注ぐ。静まった場を満たすのは、幽かな笛の音と今や主役となった尻鼓の響き。

「いや、すまなかった」

またも勢いで璃媛をからかってしまった叡陽は、素直に謝る。璃媛は、無言で苺包麺を頬張っていた。しかし、その頬は紅に染まり心は目の前でさらに深い紅に染まっていく柳扇のお尻に完全に占められていた。

やがて静かな調べに力強さが増す頃、桐香の手が軽く柳扇の背をたたく。そして、始まる激しい連打。深紅に染まった柳扇のお尻はうっすらと汗を浮かべ、淡い灯火がその妖艶で幻想的な輝きをいっそう際立たせる。桐香の歌声もいつしか躍動感と艶に満ちた強い調子に変わり、最後には叫ぶような、それでいて突如物静かな寂しさに沈んでいくような、不思議な波に乗り始めた。そして、櫻燐の笛の音がその波をある時は抑え込み、ある時は更なる高みへと導いていく。

広間を満たす圧倒的なまでの響きの力に、一同は声もなく引き込まれていくのだった。

「....いや、見事だった。また来てくれ」

演奏の後、声もなく呆然としていた叡陽は、数瞬の間をおいてようやく賛美の呟きをつむぎだした。その声に柳扇は何事もなかったように立ち上がると、櫻燐、桐香と並んで軽く黙礼してから場を辞す。璃媛の目は今は薄い衣に包まれた柳扇のお尻に釘付けとなり、一行が静かに戸の向こうへ消えた後も暫し呆然と戸を見つめるのだった。

静まり返った広間。誰も声を発せず、先ほどまでの余韻に浸っているようだった。

やがて極清が大きく息を吐き出すと、それを合図に皆が我に帰る。そして、一同を代表するように阿稀が静かな声で感想を述べた。

「なにやら....尻打ちに興じる者たちの気持ちが少しわかったような気もしますのお」


数日後の未明、璃媛は城の厩から馬を引き出すと密かに走り出した。目指すは、桐香たちが住む山間の岩屋。それは、璃媛の遥かな旅の始まりであった。