紅尻地獄への道

「あなたは死にました」

いつの間にか目の前に立っていた若者の言葉に、少女は顔を上げる。

以前、どこかで聞いたようなせりふ。茫洋とした意識の片隅に、あるメロディーが浮かんできた。

・・そう、あのゲームね....

数年前、古典ゲームとして復刻されたRPG。かつて大ブームを巻き起こしRPGの代名詞にまでなったというそのゲームに、少女は苦戦し何度も死んだ。その時にそのメロディーと共に表示されたメッセージが「あなたは死にました」だったのだ。

・・え? 死んだ! 私が?

しばし想い出の世界に旅立っていた少女だが、目の前の中性的な若者から発せられた言葉の意味に気づき、現実に引き戻される。

「はい、ここに来られた以上、あなたは既に死んでいるということです」

さらりと、どこか嬉しそうな響きすら感じさせて語る若者。その身に纏う薄衣は空の色、銀に輝く長髪の後ろにはうっすらと羽のような物も見える。

「そんな! 私は...」

少女は、反射的に出てきた否定の言葉を途中で飲み込む。

そう言われてみれば、自分はなぜここにいるのだろう? そもそも、ここはどこなのだろう? そして、突如浮かんできた最大の疑問。

「私は誰?」

しかし、その問いに答える者はなかった。

「あなたには、これから生まれ変わる世界を選んでいただきます。あなたのご希望にあいそうな世界の資料をお持ちしましたので、じっくり選んでください」

若者の話では、死者の魂はこの中間世界で次に生まれる世界を選びあるいは自らの望む世界を創り出すのだという。案内人と名乗った若者は、各世界が魂を呼び寄せるために作成した資料と自ら調べた魂の望みを元に世界を紹介するという。
まだ自分の死に実感をもてない少女であったが、呆然としているうちに話を進める若者のペースに呑まれてしまい、いつの間にか死後の世界の解説をぼんやり聞いているしかなくなっていた。

霞がかかったような乳白色の空間、その霞の波間からひょっこり現れたソファに座って向かい合っている二人の間に、いつのまにか机が現れその上にどこからともなく何枚かの紙が落ちてくる。

「あなたの場合、お尻たたきに強い想いをお持ちのようですので、こちらの世界はいかがでしょうか」

お尻たたき....。不思議な響き。まるで自分の中の忘れていた何かを呼び覚ますような。

「お尻?」
「はい。ああ、死後ショックでお忘れですね。それなら」

少女の体を青い光が包む。そして、次の瞬間……

少女は、裸で若者の膝に乗せられていた。突然の事に呆然とする少女。その少女の全身を痛みとともに衝撃が疾りぬける。

バーン、というあたりに響く残響とお尻の痛みに少女はお尻をたたかれたのだと気づく。続いて、もう1発。

今度はさらに強い平手打ち。少女は、たたかれたお尻から痛みと共に流れ込んでくる衝撃ですべてを思い出した。

そう、少女はずっとお尻をたたかれることを夢見ていた。本やネットで「お尻たたき」のシーンを見つける度に夢中で読み、幼稚園ではわざと叱られるようなことをしてはお尻をたたかれることもあった。しかし、そうしたお尻たたきへの憧れは決して他人にはいえない秘密でもあった。

最近は、厳しい事で有名なピアノ教室にお尻たたきを期待して入り、期待通りいや期待以上のお尻たたきを受けていた。そして、そこで初めて他人に自らの内に秘めた想いを打ち明けたのだった。

・・え、この人知っている!

自らの想いを思い出した少女。少女は、異性の膝に裸で横たえられお尻をたたかれているという自らの状況より、少女の想いを当たり前のように口にする若者の言葉に動揺した。少女にとってその想いを人に知られるということは、依然大きな恐れであったがために。

「ここでは、恐れることはありません。ありのままのあなたを見つめ、あなたの想いが導く世界に行くのが良いでしょう」

少女の恐れを感じ取ったかのような、若者の言葉。流れるように紡がれる言葉とやわらかな平手打ちが震える少女を癒していく。

どれほどの時間が経ったのか、気がつくと少女はまた若者に向かいあって座っていた。不思議とお尻の痛みは感じない。

「さて、私がお奨めするのは紅尻天と紅尻地獄です」
「え、地獄?」
「ああ、地獄といってもお尻をたたかれて罰せられたい、という魂の世界ですから、住民にとってはまさに天国ですねけどね。」
「....」
「あなたは厳しくお尻を罰せられたい、という想いが強いようですので、その意味では地獄向きかもしれませんね」

そう、お尻を厳しくたたかれ罰せられたい。それこそ少女がずっと望んでいたことだった。

・・お尻をたたかれる……地獄ね。良いかも....

確かに、「地獄の罰」がお尻たたきだとしたら、それはある意味で天国かもしれない。いつか見た地獄絵、その暗闇の中棍棒で叩きのめされる住人に革鞭でお尻を打たれる自分自身の姿に重ね合わせ、少女はため息をついた。

「ただ、天国と地獄では寿命というか刑期がまったく違います」

「刑期?」

思わぬ単語に、顔を上げる少女に、若者が続ける。

「はい。転生した先でどれだけの期間過ごすか、という目安ですね。紅尻天に転生した場合の寿命は、大体人間界の980年から26300年です。そして、紅尻地獄の刑期は18500年から132100000年」
「一億...」
「いずれも、階層によって期間が違いますので、選ぶ時には注意してください」

想像もできない時間に、絶句する少女。

「地獄に行くと、最低でも18500年はその……お尻を、たたかれ続ける、と?」
「はい。まぁ、どうしても嫌になれば、減刑を申し出てより軽い地獄に移ったり、刑期を短縮してもらったり、ということもできます。ただ、基本的には本人の希望をかなえる形で転生していくので、それほど期間は気にならないと思いますよ」
「いえ、いくらなんでも1万年以上とかまして1億年って……」
「そうですね。人間界とは時間の感覚も違いますが、かなり長くは感じるでしょうね。ただ、地獄に転生した後に刑期の短縮を申し出る人はそれほど多くないようです」

少女はあまりに「現実」離れした話に飲まれ、呆然と若者を見つめ続ける。すると、若者は決意を促すように話し始めた。

「実は、紅尻地獄と紅尻天は熾烈な住民獲得競争をやってまして。競争の成果もあり、どちらもかなり住民の満足度は高い世界ですから、お奨めですよ。ま、私としては紅尻天に行っていただいた方がリベートも...ってのは関係ない話ですね」

その後も、少女は熱心に営業を続ける若者と長い間話しあい資料を読んだが、次に行くべき世界を決める事は出来なかった。

「ふう、決まりませんか。そろそろ、時間切れなんですけどねえ」
「でも、そのどうしたら良いか....」
「まあ、いきなり一億年とか地獄とか天国とか言われても、戸惑いますよね、普通は。あなたの場合は紅尻界へ行くことはほぼ確実でしょうから、魂の選択に任せますか?」
「魂、の?」
「ええ、あなたはこれから輝く闇の流れに乗って生まれ変わって行きます。すでに目的地が決まっていれば、私がご一緒して次の世界の門までお送りし、そこで報酬を...じゃなかった引継ぎの上お別れするんですが....」

若者は、そっと立ち上がると優しい声で続ける。

「決まらない場合は、魂が導く輝く闇の流れに身をまかせることもできます。その場合は、あなた一人であなたの想いと魂が導く世界に流れ着くことになるでしょう」

少女は、流れに身をまかせることにした。

「あなたは、既に自らの想いを認め望みに向かっています。それがあなた自身の世界を創るベースになるでしょう。あとは、あなた自身の想いが世界を呼び寄せるはず」
「ありがとう」

少女は、薄れ行く世界と若者に心から感謝した。やがて、世界すべてが光となって溶け出し、光は闇を孕んですべてとなった。闇に溶け出した少女は、輝く闇となって流れ出す。

「これからあなたは、前の世界で生きていた時のことを思い出すかもしれません。特に、死ぬ直前に強い想いを抱いていた場合は、必ずその想いが蘇るでしょう。それから逃げてはいけません。むしろ、その想いを見つめ受け入れるようにしてください」

少女を包む闇の輝きが若者となって語りかけた。

少女は、光の中で闇に包まれ闇の中で輝きながら流れていた。

時と場所はすでに意味を持たず、少女は自分がどれくらいこうしているのか、またどこへ行こうとしていたのかも忘れていたが、流れの中に強い想いを感じるようになっていた。最初は幽かだったその想いはやがて少女の魂の奥底と響きあい、少女を引き寄せ始める。

「なに、これ?」

自分に向けられる、必死の想い、さらに呼びかけ。

少女は、自らを引き寄せる想いの中に、自分を求める強い想いと悲しみを見出しまどろみから目覚めた。その想いは、光の雨となって少女を揺さぶり銀糸の網となって少女を捉える。

「リ....リサ」

やがて、光の想いから声が聞こえてきた。その声は、何度も何度も同じ呼びかけを繰り返す。

「リサ、理沙!」

少女の心を震わせる呼びかけ。その呼びかけに、少女の心が応えた。心の応えは、少女に自らを思い起こさせる。理沙という自らの名と共に。

・・そう、私は理沙。そして、この声は?

理沙を包み込む光の闇の暖かさ。その暖かさは、理沙の凍り始めた記憶をゆっくりと溶かしていく。

・・苦しい

突如、あたりが水で満たされる。

それは、理沙が最後に見て感じていたすべてを飲み込む海水。自らを飲み込む圧倒的な水の力と、その水の恐ろしいまでのやさしさがよみがえってきた。そして、その渦巻く水の奔流の中から理沙の最後の意識の断片が叫んだ言葉が、浮かび上がってくる。

「先輩!」

理沙は、ピアノ教室を運営している先輩・沙織の家族と共に海に来ていたのを思い出した。そして、3日目の夜ひそかに旅館を抜け出した二人は海辺で遊んでいるうちにおいかけっこに夢中になり、理沙は岩場から足を滑らせて海に落ちた瞬間も。

「先輩!」

落ちていく時の驚きと絶望、そして沈み行く海の中でかすかに聞いた沙織の叫び。理沙は、その遠い記憶の叫びに応えるように再度叫ぶ。

しかし、理沙を引き寄せる網はすでになく理沙の魂は薄れゆく光を突き抜けるようにして遥かな闇へ、死の世界へと引き寄せられていく。

・・私、死んじゃったんだ....

理沙は、自らを引き寄せる闇の深さに初めて自らの「死」を実感した。

「いいわね、このあたりの海は波が荒いから夕方は早めに帰ってくるのよ」

泣き疲れてふたたびまどろみの世界に落ち込んだ理沙の心に響く声。それは、沙織の母・ピアノ教室の教師である響子のものだった。旅館に着いて早速遊びに行く2人に対して、響子は真剣な顔で注意したのだ。

「ごめんなさい」

夕方どころか、夜こっそりと旅館を抜け出した理沙たち。理沙は自分の行動を悔やんだが、すでに死者となった今となってはもはやどうする事もできなかった。

・・きっと先輩は...

響子の厳しさを思い出した理沙の目の前に、沙織がお尻をたたかれる様子がはっきりと浮かんで来た。そして、自分も....。

それは、死んでしまった自分にはありえない幻想。しかし、お尻をたたかれる自分の姿にいつしか理沙は見入り、強く願った。

・・お尻をたたかれて許されるのなら、帰りたい。

理沙は、心から沙織と響子にわびる。だが、それと同時に自らの内に潜む響子からのお尻たたきへの期待を見出して、罪悪感に襲われるのだった。

しかし、最初は自らの内にある期待に戸惑った理沙がやがて自らの想いを認めるに至って、世界は急速に光を増した。混沌とした輝く闇の暖かさは、すべてを照らす光の温もりに変わり、理沙は自分自身が形作られていくのを感じていた。

・・次の世界が近いのかしら。

光がすべてを満たし理沙の心が光に溶け込む寸前、理沙の心に若者の声が響く。

・・あなたは、世界を呼び寄せました。それは、あなたの想いとあなたを想う人の想いの強さ、そしてなによりあなたとあなたを想う人たちとの魂の絆の証。ただ、やはりあなたは新たなる紅尻地獄をも創り出したようですね・・

気がつくと、理沙は白い光に包まれて柔らかい布の上に横たわっていた。薄く開いた目に映るのは、白のみ。しかし、その白い光の中に突然影が生じる。

「理沙!」

叫びと共に理沙を襲う衝撃。体を起こしかけた理沙は、強く布に押し付けられた。

「先輩?」

覚醒していく意識の中、あたりを見渡した理沙はここが病院であることに気づく。

胸に感じるのは、沙織の圧力。その圧力は、沙織のもらす嗚咽以上に理沙を想う気持ちの強さを感じさせた。
そして、後ろに感じるのは....視線

「先生!」

そこにいたのは、珍しく涙を浮かべた響子だった。

「よかった....本当に」

静かに歩み寄り柔らかく理沙を包む響子。

理沙がおぼれた後、沙織は急いで旅館に救援を求め自らも必死に理沙を探し引き上げたという。しかし、すでに理沙の息はなかった。幸い、人工呼吸を受けるうちに息を吹き返し、一般病室へ移されたのが今朝の未明。

それから半日の間、沙織親子はずっと理沙に付き添っていたのだった。

「それにしても夜の海に行くなんて。あれほど言っておいたのに!」

状況を説明した後の響子の言葉。響子の真剣な顔と声は、理沙に流れ行く世界の中で自分を導いた想いを想い起こさせた。

・・やはり、お仕置き、よね....

理沙の退院後の数週間、理沙と沙織はこの世の紅尻地獄の住民として過ごしたのだった。